九州・佐賀県の北西部にある唐津市呼子町。大陸に向かうこの街は、天然の良港を持ち、古くは海上交通の要衝として栄えてきました。
文禄年間、太閤秀吉が朝鮮出兵を行った時代に始まり、戦後間もない頃まで、この地域の発展を支えてきた産業、それが捕鯨です。特に江戸時代から明治初期にかけて、呼子の捕鯨は興隆を極め、国内有数の捕鯨基地としての勇名を馳せていました。沖合に広がる玄海灘を、秋に下り、春に上る鯨。船団を組んで海に乗り出し、網をかけて、もりを突いてしとめる、日本ならではの勇壮な網取り式漁法の様子は、絵巻物となって記録に残されています。
江戸時代に全盛を極めた鯨組・中尾家。その後を引き継ぎ、明治11年に創業した小川嶋鯨組(のちの小川嶋捕鯨株式会社)。その出資者であった事業家・山下善市のもとには、鯨肉や内臓などの分配品が届けられていました。分配品の中には、かぶら骨と呼ばれる鯨の上あご(鼻筋)の軟骨も。捕鯨基地としての歴史から鯨の食文化が発達していた呼子でしたが、かぶら骨は利用価値が少なく、調理法もほとんど皆無。細く刻んで刺身のつまとして用いる以外、使い道はありませんでした。
かぶら骨の持つ独特の食感に注目した、善市の妻・ツルは、酒屋を営む本家より酒粕を買い求め、かぶら骨を漬け込むことを思い立ちました。酒粕の豊かな風味と試行錯誤によって生まれた甘辛い味付け。酒の肴としてはもちろん、ごはんとも相性がよいツル手製のかぶら骨の酒粕漬は、瞬くうちに近所の評判に。明治25年に創業し、明治40年には「松浦漬」という名で商標を取得しました。
その後、社長の代も時代も移ろい、昭和30年代の捕鯨最盛期には庶民の味としてたいへんな人気を馳せるようになりました。ところが時代も豊かになり、また、国際的に捕鯨に厳しい目が向けられるようになり、ついに昭和62年に商業捕鯨が停止に。原材料となるかぶら骨がほとんど手に入りにくい状況となり価格が高騰してしまいました。
そんな厳しい環境の中、山下ツルが作った伝統の味を守り続けています。
さらに旬の魚介類を素材にした新たな味の開拓に乗り出しています。
江戸中期〜後期 西海捕鯨最盛期 |
佐賀県呼子町でも中尾組・中尾甚六による古式捕鯨が盛んに行われる。 |
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明治11年 |
中尾組廃業。 小川島捕鯨組に受け継がれ、呼子近海で継続して捕鯨が行われる。 事業家・山下ツル、小川島捕鯨組分配の鯨のかぶら骨と隣接する酒屋の酒粕を使い、松浦漬を開発。 |
明治25年 |
松浦漬本舗創業。 山下ツル、初代社長に就任。 |
大正11年 | 平和記念東京博覧会にて松浦漬が名誉金牌受賞。 |
昭和26年 | 九州地区連合佃煮粕漬展にて農林大臣賞受賞。 |
昭和50年 | 厚生大臣賞受賞 |
昭和51年 | 労働大臣賞受賞 |
昭和58年 | 現在地(佐賀県唐津市呼子町殿ノ浦5番地)に新社屋建設、移転。 |
昭和62年 |
IWC(国際捕鯨委員会)が採択した商業捕鯨モラトリアムによって、日本は商業捕鯨を中止。 調査捕鯨を開始する。 |
平成元年 |
松浦漬本舗の直売店「松簾」をオープン。 時代の流れを受けて、魚の粕漬の開発に乗り出す。 |
平成5年 | 松浦漬本舗直売店「松簾」にて魚粕漬の販売を開始。 |
平成6年 | 新商品の開発・販売に次々と乗り出す。( 貝柱粕漬、海茸粕漬、松浦漬とのセット販売 ) |
平成14年 | いか入り海鮮しゅうまい販売開始。 |
平成18年 | 松浦漬本舗直売店「松簾」リニューアルオープン |
平成22年 | ジャパンパッケージングコンペティション和食品部門賞 |
平成28年 |
第25回全国水産加工品総合品質審査会 水産庁長官賞受賞 第26回全国水産加工品総合品質審査会 ノルウェー王国大使賞受賞 |